2014年12月19日
思いの果て
自分が身に着けてきた知識で、自分がある程度ちゃんとしてしまい、それが偶然自分の得意な分野で何となくうまくいってしまっている。
その安定感。やっとちゃんとできた安堵感。もうこれで大丈夫なんじゃないかという安心感。
これが知らず知らずのうちに自分を苦しめていた。
その安定感。やっとちゃんとできた安堵感。もうこれで大丈夫なんじゃないかという安心感。
これが知らず知らずのうちに自分を苦しめていた。
それに気づかず、いや、見て見ぬふりして、いつも大丈夫大丈夫と呪縛のように言い聞かせてきた。
そうすることで、毎日が忙しく、大変で、そこにそれなりの収入があってしまうのでそれがまるで自分がうまくいってる対価のように感じ、それを享受する。
たまに本当に自分のやりたいことに近いものがくるとそれを必死でやっては、それで満足する。
そして、またいつもの多忙な生活に埋もれていく。
いつもの生活も決して意味がないものではなく、逆にかえって意味があるものだったりするものだから、それを否定もできず、受けいれる。
なのにいつも心がひっかかる。踊らない。ワクワクしない。無難にこなしてる。こなせてしまうからそれで良しとする。
そんな現状になってるとも気づかず、楽しいフリをして、うまくいってるフリをして、その目の前にある波を乗りこなそうと必死になってあがく。
そんな時は大概いつも不安が付きまとう。このまま、この好調さは続くのだろうか?なくなってしまいはしないだろうか?数年後、数十年後、このままやっていけてるんだろうか?
勘は鋭い方だ。だからこそ強くいつも心にその不安がまとわりついた。勘はそれだといっているのに、それが違和感だと気づかず、単なる不安なのだと言い聞かせて。。。
そんな時、その不安を払拭したくってカードをやってもらった。でも、その時していた質問が張りぼての自分が、大丈夫なフリして、大丈夫なはずの自分が聞いた質問だったから、問題はないと。楽しいことをやれと。望むことをやれと言われ、そのままでいいんだと張りぼての私は判断した。
そしてその時紹介してもらった福ちゃんというすごい整体師さんに整体をお願いしたら、なんだか自分がすごい人のように感じた。
感じるものが全部楽しく、その勘にしたがうと面白いほどおもしろいことが起こった。
なんだか自分がすごい!って感じられた。
でも、その直後ある人から投げかけられた一言が私を奈落の底に突き落とし、地べたを這いつくばるような気持ちにさせられた。
「金のために仕事をしている」
一見当たり前のような、でもなんか嫌なことば。
でも私はショックで立ち直れなくなった。
そして追い打ちの一言
「他になにかできるんじゃないの??」
これが一番きつかった。
今まで身に着けてきたものを、否定されたショック。それがいいとか、悪いとかじゃなく。あんたにそれが必要なのかとストレートに聞かれた。
必死に思う。必要に決まってるじゃん。必要だよ。だってだってだって・・・・
それがもう答えだった。必要さに必死にしがみ付いていたのは私。
必要でなくては困ると思っていたのは私。
その呪縛から逃れられなくなっていたのは私自身。
うまくいってるんだから、何もダメなんかじゃない。これでいいんだよ、、、ね?そうだよね?
誰に語りかけても答えてはくれない。いや、怖くて誰にも聞けないんだ。
今思うと真実とはこうも怖いものなんだなぁと。でもその時の私はそれにすら気づけず、ただ怒り、ただ泣き、ただ落ち込み、ただ不安の波にのまれていっただけだった。
そしてあまりに暗くて、不安で、悲しくて、辛くて、もうここにはいたくない!!!って思えた。
このままじゃずっとこの暗がりにいなくちゃいけない。それは嫌だ!!!
抜け出す方法はわからなかった。
とりあえず、泣くだけ泣いた。怒るだけ怒った。落ち込むだけ落ちこんだ。
それってすごいことだった。
常日頃喜怒哀楽の大切さをセッションしてきた自分が一番そこのすごさを甘く見ていたんだ。
ほんとにすごいよ、この威力。
そしてそのあと、自分は空っぽになり、何の鎧も身にまとえず、ただ素の自分で立つしかなかった。
気負いもできない。自信もなければ、虚栄も張れない。
そしたらできた本当に自分のやりたいセッション。なんてこったいです。
虚栄も鎧もいらなかった。それが自分を閉ざしていた。重荷はそれ。
もう全部いらないんだ。
いらないものはその不安と不安からくる虚栄心。そんなものなくったって私はできるのに。
できないって勝手に思い込んで、できないのにできる自分を演出してた。
私がやりたかったことはそれじゃなかった!
本当に伝えたいことを伝えていない気がした。
技法だけに囚われ、形だけの情報を伝える。
それで満足していた。
私はそれがしたいんじゃない!私はそれだけを伝えたいんじゃない!!
私はその人の、その人だけの、その心と、その人となりを感じて伝えたいんだ。そして教えてあげたいんだ。そのままのあなたでいいんだってことを。
それを私はできるのに、それを私は感じられるのに、技法と情報だけで伝えてきてしまった。
技法もしっかりしてるし、情報もちゃんとしているので、それはとても便利で、喜ばれ、重宝してもらえる。
それに甘えていた。
でも私がしたいのはそんな形に囚われたものじゃない!もっと私らしく、私だから感じられるものを伝えたい。
それは私の怖がってきた、見つめられなかった、認められなかった思いを、きちんと受け止め、その経験をしたからこそできる、私の歴史が生み出す力。
問題なく、そつなく、クールにすることは楽だった。
でも、それは楽だったからやってきたこと。
やりたくてやってきたことじゃない。
私は私になりたい。
淋しがりで、気にしいで、認められたくて、見つめられたくて、見ててもらいたくて、仲間が欲しくて、居場所が欲しくて、それを求めたくてたまらなかった自分。
それをすると傷つくから、怖いから、クールであることに逃げた。強くあることでそれがなくても大丈夫ってフリした。
でも、本当の自分は心からそれを望んでいる。
でも前のような形ではない。
もうなりたい自分も、やりたい自分も、やれることも、やれないこともわかってきた。
そんな自分が本当に求める場所で、求める仲間と、やりたいことをやりたい。
そうすることで、毎日が忙しく、大変で、そこにそれなりの収入があってしまうのでそれがまるで自分がうまくいってる対価のように感じ、それを享受する。
たまに本当に自分のやりたいことに近いものがくるとそれを必死でやっては、それで満足する。
そして、またいつもの多忙な生活に埋もれていく。
いつもの生活も決して意味がないものではなく、逆にかえって意味があるものだったりするものだから、それを否定もできず、受けいれる。
なのにいつも心がひっかかる。踊らない。ワクワクしない。無難にこなしてる。こなせてしまうからそれで良しとする。
そんな現状になってるとも気づかず、楽しいフリをして、うまくいってるフリをして、その目の前にある波を乗りこなそうと必死になってあがく。
そんな時は大概いつも不安が付きまとう。このまま、この好調さは続くのだろうか?なくなってしまいはしないだろうか?数年後、数十年後、このままやっていけてるんだろうか?
勘は鋭い方だ。だからこそ強くいつも心にその不安がまとわりついた。勘はそれだといっているのに、それが違和感だと気づかず、単なる不安なのだと言い聞かせて。。。
そんな時、その不安を払拭したくってカードをやってもらった。でも、その時していた質問が張りぼての自分が、大丈夫なフリして、大丈夫なはずの自分が聞いた質問だったから、問題はないと。楽しいことをやれと。望むことをやれと言われ、そのままでいいんだと張りぼての私は判断した。
そしてその時紹介してもらった福ちゃんというすごい整体師さんに整体をお願いしたら、なんだか自分がすごい人のように感じた。
感じるものが全部楽しく、その勘にしたがうと面白いほどおもしろいことが起こった。
なんだか自分がすごい!って感じられた。
でも、その直後ある人から投げかけられた一言が私を奈落の底に突き落とし、地べたを這いつくばるような気持ちにさせられた。
「金のために仕事をしている」
一見当たり前のような、でもなんか嫌なことば。
でも私はショックで立ち直れなくなった。
そして追い打ちの一言
「他になにかできるんじゃないの??」
これが一番きつかった。
今まで身に着けてきたものを、否定されたショック。それがいいとか、悪いとかじゃなく。あんたにそれが必要なのかとストレートに聞かれた。
必死に思う。必要に決まってるじゃん。必要だよ。だってだってだって・・・・
それがもう答えだった。必要さに必死にしがみ付いていたのは私。
必要でなくては困ると思っていたのは私。
その呪縛から逃れられなくなっていたのは私自身。
うまくいってるんだから、何もダメなんかじゃない。これでいいんだよ、、、ね?そうだよね?
誰に語りかけても答えてはくれない。いや、怖くて誰にも聞けないんだ。
今思うと真実とはこうも怖いものなんだなぁと。でもその時の私はそれにすら気づけず、ただ怒り、ただ泣き、ただ落ち込み、ただ不安の波にのまれていっただけだった。
そしてあまりに暗くて、不安で、悲しくて、辛くて、もうここにはいたくない!!!って思えた。
このままじゃずっとこの暗がりにいなくちゃいけない。それは嫌だ!!!
抜け出す方法はわからなかった。
とりあえず、泣くだけ泣いた。怒るだけ怒った。落ち込むだけ落ちこんだ。
それってすごいことだった。
常日頃喜怒哀楽の大切さをセッションしてきた自分が一番そこのすごさを甘く見ていたんだ。
ほんとにすごいよ、この威力。
そしてそのあと、自分は空っぽになり、何の鎧も身にまとえず、ただ素の自分で立つしかなかった。
気負いもできない。自信もなければ、虚栄も張れない。
そしたらできた本当に自分のやりたいセッション。なんてこったいです。
虚栄も鎧もいらなかった。それが自分を閉ざしていた。重荷はそれ。
もう全部いらないんだ。
いらないものはその不安と不安からくる虚栄心。そんなものなくったって私はできるのに。
できないって勝手に思い込んで、できないのにできる自分を演出してた。
私がやりたかったことはそれじゃなかった!
本当に伝えたいことを伝えていない気がした。
技法だけに囚われ、形だけの情報を伝える。
それで満足していた。
私はそれがしたいんじゃない!私はそれだけを伝えたいんじゃない!!
私はその人の、その人だけの、その心と、その人となりを感じて伝えたいんだ。そして教えてあげたいんだ。そのままのあなたでいいんだってことを。
それを私はできるのに、それを私は感じられるのに、技法と情報だけで伝えてきてしまった。
技法もしっかりしてるし、情報もちゃんとしているので、それはとても便利で、喜ばれ、重宝してもらえる。
それに甘えていた。
でも私がしたいのはそんな形に囚われたものじゃない!もっと私らしく、私だから感じられるものを伝えたい。
それは私の怖がってきた、見つめられなかった、認められなかった思いを、きちんと受け止め、その経験をしたからこそできる、私の歴史が生み出す力。
問題なく、そつなく、クールにすることは楽だった。
でも、それは楽だったからやってきたこと。
やりたくてやってきたことじゃない。
私は私になりたい。
淋しがりで、気にしいで、認められたくて、見つめられたくて、見ててもらいたくて、仲間が欲しくて、居場所が欲しくて、それを求めたくてたまらなかった自分。
それをすると傷つくから、怖いから、クールであることに逃げた。強くあることでそれがなくても大丈夫ってフリした。
でも、本当の自分は心からそれを望んでいる。
でも前のような形ではない。
もうなりたい自分も、やりたい自分も、やれることも、やれないこともわかってきた。
そんな自分が本当に求める場所で、求める仲間と、やりたいことをやりたい。
Posted by Coeur at 19:50│Comments(0)